テキスト:部長(オレに黙って辞めるな!)
僕が世界で二番目に好きなサッカー選手が引退しました。
正確に言うと、引退していました。
もう35歳だし、ミランに来て大怪我もしたし、そろそろかなあと思っていたのですが、
2004年11月、とっくに引退してたよ…。しかも今日知ったし。(2005年3月26日)
ということで、今日はささやかなレドンド特集をシッポリとお届けします。寂しい…。
レドンド様のことを簡単に紹介させて頂くと、元アルゼンチン代表で、ロン毛と美しいプレースタイルが印象的な選手でした。
海外サッカー選手としては珍しく、大卒という学歴の持ち主で、おまけにボンボン。
長身・知的・エレガントな雰囲気から、”エル・プリンシペ”(王子)と呼ばれていました。
背筋をピンと伸ばした綺麗な姿勢から繰り出す、状況判断に優れた正確且つ的確なパス。
頑ななまでにサイドキックに拘るところや、ドリブルで攻め上がる姿なんて最高にカッコ良かった!
レアルマドリー所属時代に99-00シーズンの欧州チャンピオンズリーグ準決勝・対マンU戦で見せた、
左サイドをドリブルでえぐりーの、股抜きヒールキックで相手ディフェンスをブチ破りーの、
ラウールに出した”触るだけでゴールに入るラストパス”は正に神のプレーでした。あれは僕でも決められた。
また、オフェンスだけでなく、ボール奪取能力にも非常に長けていた万能型ディフェンシヴハーフ。
美しさと狡猾さを兼ね備え、潰し屋全盛の現代サッカーでは、余りお目にかかれないタイプの選手でした。
間違いなく、アルゼンチンサッカー史上に名を残す名手でした。
なのに、代表キャップはたったの29試合。そして、たったの1ゴール。
ゴール数はともかく、何故ここまでの名手が29試合しか出場していないのか。
今日はその部分に、ほんの少し触れてみたいと思います。
この男、いや、この漢、変に頑固というか、優先順位が非常に狂ってるというか、我が道を突き進み過ぎるというか、
とにかく何かとつけて代表召集を断る人でした。
学生時代から、代表からラヴコールを受けていた王子。ある時王子は、代表合宿に参加するよう声を掛けられました。
並みの選手なら、講義の一つや二つや三つ、なんとか都合付けて召集に応じると思うんですが、この王子ったら、
「講義があるからムリだね。」
1990年イタリアワールドカップ。王子にとって、初めてのワールドカップ出場のチャンスがやってきました。
ただ、この時、監督からは「守備的にやってくれ。」という要望が出ていました。
並みの選手なら、自分を押し殺してでも、監督に従ってワールドカップに出場したいと思う筈なのですが、この王子ったら、
「むしろ攻めたいよね。」
王子が精力的に活動した、バシーレ監督政権が終了し、
1998年のフランスワールドカップに向けて、規律に厳しいと言われているパサレラ氏が監督就任。
↓噂の規律に厳しい監督
「オレ、ロン毛、嫌い。切らないヤツ、代表、呼ばない。」
並みの選手なら、チン毛を剃ってでも、代表に呼ばれたいと思う筈なのですが、この王子ったら、
「まっぴらゴメンだね。」
↓妥協して髪切った人
「だってW杯に出たいんじゃもん!!」
「バッサリいってみました。」
フェルナンド・レドンドは物凄く芯が強い人でした。間違った方向に熱いハートの持ち主でした。
断髪後は、短髪に味を占めて、二週間に一度の割合で床屋に通ったそうです。類稀なるキチGUY。
名手でありながら、代表には殆ど執着心の無い選手。こういう人もいるんだなあ。
現役最後の4年間は、大怪我のせいで16試合にしか出場出来なかった王子。
お父上がACミランファンということもあり、ミランに移籍した王子ですが、
もし、お父上がミランファンでなかったら、移籍することもなく、イタリアで大怪我することもなく、
今でも華麗なプレーを見せていてくれたのでは?と思わずにはいられません。
今、王子に掛けてあげたい言葉は、「お疲れ様でした。」ということだけです。
新たな人生、頑張って変な意地張りながら歩んでください。
あなたのことは絶対に忘れません。
フェルナンド・レドンド
1969年6月6日ご生誕
性格:意地っ張りでGOING MY WAY。折り合うという言葉を知らない。
元アルゼンチン代表 国際Aマッチ29試合出場1得点
1987〜1990 アルヘンティノス・ジュニオールズ
1990〜1994 テネリフェ
1994〜2000 レアル・マドリー
2000〜2004 ACミラン
2004年11月 現役引退